ノキアといえばフィンランドのテクノロジー企業として有名ですが、1998年―2011年まで世界の携帯電話シェア40%を誇る巨人でした。しかし成熟産業としての携帯事業もGAFAによるエコシステムにシェアを奪われ、なんと一時期5%まで携帯電話シェアも落ち込みます。その後ノキアは、マイクロソフトとの戦略的提携を経て、本業の携帯事業の売却、シーメンスネットワーク、AGLの買収により、現在5Gネットワークの世界2位のインフラベンダーとして復活しました。
 その起死回生の復活の立役者であるCEOリスト・シラスマ氏が著した「NOKIA復活の軌跡」(*1)にて、その実話に基づく状況が克明に綴られています。

 大変興味深い内容なのですが、彼が当時のノキアの取締役会と経営執行チームをどのようにリーダーシップを発揮して立て直したのか、その中核となるアプローチが紹介されています。
そのアプローチが「パラノイア楽観主義」というものです。

 「パラノイア」とは最悪のケースが起こった状況のことを妄想する症状のことですが、最悪のケースを想定して対応策を持っておくと、何をどう覚悟しておけばよいかが理解できるので、逆に様々な状況に対して「楽観的」に行動することができる、という考え方を指します。シラスマ氏は、その概念をリーダーシップはどうあるべきかという独学と経営者としての実践の中で築いたと言います。

パラノイア楽観主義にもとづくシナリオ・プランニングの実践

 「パラノイア楽観主義」の具体的な検討手法は、『用心深さと健全なレベルの現実的な恐怖心・危機感に、シナリオベースの思考であらわされる前向きで先見性の有る展望とが組み合わさったものである』としています。

 具体的にマイクロソフトとのM&A交渉では大きく以下3つのシナリオを事前に検討します。当時マイクロソフトはウィンドウズフォンの開発パートナーとしてのノキアと戦略提携をしていましたが、その提携直後にSurfaceを発表し、ノキアはマイクロソフトの真意を図りかねていました。

A.マイクロソフトがノキアを買収する
    最も現実的。如何に有利に交渉を進めるか
B.マイクロソフトが他の携帯会社を買収する
    回避したい最悪のシナリオ(巨大なライバルになってしまい、勝ち目がない)
C.マイクロソフトは自力でモバイル製造業者になる
    非現実的

 検討の結果、Aのシナリオでもっともノキアに有利な条件交渉を勝ち取り、かつ他のシナリオを極力回避する戦略を同時並行で進めつつ、着地することを目標として交渉を進めます。
 実際には、より詳細なサブシナリオに分岐して検討されてゆき、状況に応じ行きつ戻りつが有りますが、粘り強く交渉相手であるバルマー率いるマイクロソフト経営陣と交渉し、最終的には相互の信頼関係を築くことに成功します。 売却サイドでの大規模M&Aでの交渉のリアルなやり取りは、私自身の経験とも重なり、現場の緊張が伝わってきます。

シナリオ・プランニングの重要性と実施上の心構え

 この本を通じて、未知の不確実な状況を複数の選択肢に分解して対策を検討整理し、評価比較しながら自分たちが置かれている状況をより正しく理解する思考方法とその鍛錬が、きわめて重要であることが分かります。以下は著者のいくつかのコメントです。
()内は本稿作者の理解です。

・シナリオプランニンングは何といっても可能性に対して心を開くものであり、選択肢が本当にあることが分かる。それ(選択肢の存在に気付くこと)がどれほど重要であるかは強調してもしきれない。
・危機の真っただ中であれ、日常的な意思決定であれ自分が運転手になるか乗客になるかの分かれ目となる。

 また、実際に検討する際に直面する心理的な克服課題についても以下のように述べられています。

・想定できるシナリオの検討にはもっと多くの時間をかけたいのはやまやまだが、この検討を本当の意味で充実させるには、想定外のシナリオの探求にかなりの時間をかけたほうがいい。もっともらしさを早まって判断(多分これでいけそうだという思い込みによる判断)せずにシナリオをたくさん挙げてゆくには心の鍛錬が必要だ。
・起こりそうもないシナリオを軽視しないようにするにはさらなる鍛錬が求められるが、あえて重要性の低いものを考えるアプローチは可能性に対して心を開く鍵となる。
・たとえば「選択肢Bについて考える時間を割り当てたならば、たとえそれが時間の無駄だと思ったとしても、その時間中は選択肢Aを考えてはいけない。」というルールを決めるのも一法。そうすることで勝てるシナリオの検討時間になったときには、みんなは頭を絞りより濃密に実現方法を考え出そうとするであろう。

複数の代替シナリオを作成する習慣を身に着けるメリット

 また、シナリオ・プランニングの習慣化のメリットに関して以下を挙げています。

・シナリオに対応するアクションプランを作成することで、漠然とした恐怖やはっきり説明できない脅威を打ち消し、不安が軽減される。計画を立てれば管理できる。
・最悪の場合でさえ、実際に起こったことに少なからず似たシナリオについて対策を考えているので素早く対応できる。

リスクに脆弱な「最善一案主義」

 弊社、小川も前回の投稿で同様の観察を述べていますが、多くの一般的な稟議判断の案は、「一案主義」とも言うべき最も良いと思われる「唯一つの案」が提示されることが多いのではないでしょうか。
※前回の投稿の詳細は以下の記事よりご確認いただけます。
『選択の自由度を高める仕組みとマインドセット』

 立案者の心理的側面からすれば、様々な複数の代替案の中から、より有望とみるべき案の条件的取捨選択を、無意識のうちに行っているケースが多いと思われます。
 どのような無意識の選択を行ったのか、その選択は妥当なのか、といったリスクが理解されずにYES・Noを判断しなければならない状況ではM&Aの様な相対の交渉環境における最適案を創造的交渉によって見出すことは極めて難しくなることでしょう。

 とはいえ、ひとつの事業プランを適切かつ十分な精度で作成するだけでも多くの時間と労力をかける必要があるにもかかわらず、それを複数案作成し議論するには、どのような方法で行えばよいのでしょうか?

例えば、

・組織的には、担当やチームを分けて複数のチームに並行して検討させる、または、
・検討すべき代替シナリオのための時間配分を予め確保する。
・類似案件での過去の頻出したリスクには必ず対策を考える。

のようにプロセス・リソースをコントロールする方法。あるいは、

・シンプルな収益影響試算モデルと少数の重要な事業の説明変数の設定を行う
・その際に有効数字3桁未満の世界で概算レベルで語る

のように基準や検討層をシンプルに設定するなど方法は考えられると思われます。

 例えば、「JTのM&A」の著者である新貝さんは海外におけるタバコ事業成長の環境分析を行った際に、世界的な喫煙人口の減少が事業を決定づける説明変数であることを明確にし英国のギャラハー買収に向けた周到な準備を開始したことを明かしています。
 その際の買収価格はおよそ1兆7300億円。規模の大小あれど大きな方向性を見極めるのに有効数字3桁以上はほぼ意味がないと思われます。

 起こりえない、、、と思えるような一見「無駄に思える」案を強制的に考えるにはかなりの思考訓練を必要とします。しかし、最悪の事態になってから対策を考える後追いロスと混乱やプレッシャー、それらによる悪影響、二次災害等を考えれば、その時間投資効果は絶大であると思われます。

感情を活用する戦略プランニングプロセス

 また、シラスマ氏は、ノキアの携帯事業売却という苦悩の決断にいたる苦難の時期にあって、パラノイア楽観主義とシナリオ・プランニングがもたらした効果を、取締役会メンバーや経営執行チーム、経営メンバーの証言として、以下のポイントについても触れています。

・様々なシナリオを何度も繰り返し分析することで早い段階で感情を表出させることができた。
・検討過程で感情をあらわにできたことで、その意思決定が事実に基づいていると確証をもって言えた。
・ノキアという巨大企業における経営危機という事態に直面し、経営陣(取締役会、経営執行チーム)の過去の過ちに対する罪悪感・内省を共有したことで取締役会と経営執行チームがより意図(当事者意識)をもって取り組むことができ、より幅広い代替シナリオを考えようと心掛けるようになった。
・あえて、否定的な感情を抑えつけないほうが、罪悪感や恐怖感を認めて、先に進めるようになる。最悪の結果について話し合っておけば、実際に恐怖心が薄れて、その後は自分たちで計画を立てて準備することができる。
・パラノイアになって身をすくめる代わりに、楽観主義を奨励できるようになり、そこから今度は積極的な行動へと踏み出せるようになる。

 客観的で合理的な意思決定は理想であるが、人間は感情の生き物であり、現実的にはむしろ感情の表出によって、行き詰った意思決定を前に進めることに繋がり、オープンで納得感のあるものにすることが打開策となるという示唆は、現代の多くの日本の企業経営状況に求められるヒントになりはしないでしょうか?

(名田 秀彦)

(*1)「NOKIA 復活の軌跡」 リスト シラスマ(著) , 田中 道昭他、渡部 典子 (翻訳)