昨年10月の本コラムで、「NPVの弱点」についてご紹介しました。(メールニュース「インテグラート・インサイト」 Vol.66 (2011.10.27) http://www.integratto.co.jp/column/066/)読者の方からコメントを多くいただき、意思決定に用いる財務指標の選択は、読者の皆様の関心の高い分野であることを実感しました。本コラムでは、その続編として、NPVを評価指標とした事業投資の意思決定が、必ずしも事業の成長につながらない場合があることと、その原因をご紹介します。
NPV(正味現在価値)は昨年10月にもご紹介したように、投資の意思決定に用いる評価指標として優れた点が多く、グローバルに最も活用されている評価指標の一つです。しかし、弱点もありますので注意が必要、というのが本コラムの趣旨です。その注意点として本コラムで取り上げるのは、過去投資(サンクコスト)の問題です。
投資意思決定の理論では、過去投資について、一般的に次のように整理されています。「投資の意思決定においては、過去投資は考慮しない。その理由は、これから投資を行う場合には、これからの投資に対するリターンを比較すれば良いからである。」投資の意思決定とは、これからのお金の使い方を考えることですから、過去投資は一切考慮せず、これから使うお金がどれだけリターンを生むかを検討する、という考え方です。この考え方自体は正しく、投資の意思決定上、何の問題もありません。従って、多くの企業で、過去投資は考慮せずにNPVが算出され、意思決定に活用されています。
しかし、これからの投資の意思決定に関して過去投資は考慮しない、ということは、過去の投資をきれいさっぱり忘れ去って良い、ということではありません。過去に投資を意思決定した際には、その投資に対する将来のリターンが想定されたはずで、そのリターンを達成しなければならないという、そのときの意思決定を忘れてはならないのです。過去の投資を忘れるためには、その投資へのリターンを要求しない、という新たな意思決定が必要です。
このような問題が生じる原因は、過去投資の定義が誤解されがちなことにあります。過去投資とは、文字どおりの意味ではなくて、「こぼしてしまったミルクのように、回収不能な過去の投資のこと」(※1)です。つまり、過去の投資で忘れるべきなのは、回収不能な投資であって、これから回収すべき過去の投資は忘れてはなりません。本コラムでは以後、忘れてはならない投資のことを、過去の投資と記載します。
過去の投資が小額であれば、これからの投資についてのみNPVを算出しても大きな問題はないかもしれません。しかし、プロセスが長い製品開発における過去の投資は、一般に認識されているよりも、実は高額なのではないか、と考えさせられるデータがありますのでご紹介します。
アメリカの製薬会社大手イーライ・リリー社の研究者が、2010年3月にネイチャー・レビュー誌に製薬会社のR&D(研究開発)費用を分析した論文を発表しました(※2)。この論文は、新たな医薬品の開発に、どの段階で・どの程度の投資が必要かを詳細に分析したうえで、R&D生産性向上の方策を考察し、イーライ・リリー社の具体的な取り組みを紹介する内容です。本コラムでは、投資額に関する分析の一部をご紹介します。
一般的に新たな医薬品の開発には高額の投資が必要となりますので、評価指標としてNPVを用いた投資意思決定が行われることがあります。特に、医薬品開発の最終段階であるフェーズ3という段階では、数十億円から数百億円の投資を要することがあり、NPVを用いた意思決定がよく行われます。このときの計算では、過去の投資を考慮しないケースが見られます。フェーズ3の投資は金額が大きいので、過去の投資を評価する必要性が低いようにも感じられます。しかし、イーライ・リリー社の論文によると、フェーズ3以降の投資は、新たな一つの医薬品を開発する投資額合計の32%に過ぎず、フェーズ3よりも前の投資額が合計の68%にもなります。過去の投資は考慮しない、という理由で、この68%を無視すると、事業が成長する計画が立案できているのか、即ち、開発開始時点から使ったお金を上回るお金を回収する見通しが立っているのか、大いに疑問です。
仮に金額を置いて、1つの製品の開発に1,000億円が必要だとします。フェーズ3以降の投資が全体の32%ですから、フェーズ3での意思決定では、320億円の投資に対するリターンを確認することになります。この時点でNPVが計算され、NPVがプラスであれば、320億円の投資は適切に利潤を確保して回収できるでしょう、という意味です。しかし、フェーズ3よりも前に投資された680億円に対するリターンが、過去の投資は考慮しないとして忘れ去られているとしたら、最終段階の投資を回収する、という低い目標設定が原因となり、この製品は、開発開始から販売終了までの通算では赤字に終わる(投資が回収できない)可能性があります。
イーライ・リリー社の論文のデータで、フェーズ2以前の投資が高額に算定されている理由は2つあります。1つは、創薬と言われるR&Dの上流工程まで費用を分析していることです。もう1つは、製品化に至らなかったR&Dテーマの費用も、製品化に成功した製品で回収するロジックにしていることです。つまり、R&Dの失敗が考慮されています。
過去の投資を考慮することは、計算としては単純なことです。実務的に難しいのは、上流工程の費用を製品に配賦することで、更に難しいのは、製品化に至らなかったテーマの費用を配賦することでしょう。
事業化までに長いプロセスを持つ産業において、過去の投資が無視されてNPVが算出されていることがあり、大きな懸念を感じます。開発開始から販売終了まで、通算した採算を確保する見通しは立っているのでしょうか?NPVが投資額の一部に対してのみ算出されている場合には、通算した採算は不明です。過去の投資は無視できる額なのか、事業化・製品化に至らない過去の投資は、どうやって回収することになっているのか、明確に定義されていない場合には、再考をお勧めします。
(小川 康)
※1出典: 「Principles of Corporate Finance 5th edition」 Richard A. Brealey and Stewart C. Myers, McGraw Hill, p115
※2出典: 「How to improve R&D productivity: the pharmaceutical industry’s grand challenge」Steven M. Paul, Daniel S. Mytelka, Christopher T. Dunwiddie, Charles C. Persinger, Bernard H. Munos, Stacy R. Lindborg and Aaron L. Schacht NATURE REVIEWS Drug Discovery volume 9, March 2010, pp.203-214