先日、弊社ソフトウエアRadMapのユーザー会恒例の合宿で、12社26名の参加者が、意思決定における時間軸について議論しました。短期の取り組みを優先するか、長期の取り組みを優先するか、自分たちは経営陣への説明をどうすればよいか、というテーマでした。

 参加者には、新製品開発に携わる方が多く、自然と、長期の取り組みが大切だよね、という雰囲気になっていました。ところが、参加者の一人が、「今年や来年の業績が良くなることは、会社にとって、とても良いことですよね。短期の取り組みを優先してよいと思います。」と発言したところ、一瞬、その場がシーンとなってしまいました。

 その沈黙は、「議論の流れを壊すなよ」という批判では決してなく、「確かに、言われてみれば、合理的な意見である。自分の立場とは異なるけれど。」という気付きに対する、参加者の戸惑いだったように私は感じました。それぞれの企業で、短期の取り組みが優先されそうな場面で、自分は長期の取り組みが重要だと思っているのに、意思決定者にうまく説明できない、事業現場のそんな悩みが垣間見えたのです。

 確かに、今年、来年の業績が良くなる取り組みがあれば、それを重視する、という意見には、強い説得力があります。経営陣と社員にとって、具体的に何をすればよいのか、仕事の内容を定義し、管理できるところが、大きなメリットです。投資家もハッピーです。何よりも、業績が良くなる喜びを、関係者全員がすぐに実感できるのは、とても素晴らしいことです。

 一方で、事業としては、種まきをしなければ、刈り取ることは出来ませんから、長期の取り組みも重要なはずです。このような、直感的に理解できることを、経営学者は理論的に経営法則として整理しているのか知りたいと思い、経営学者の論文・著作等にあたってみることにしました。

 まずは、長期の取り組みという表現が、目的を語っておらず、説得力を下げていることに気付きました。つまり、長く取り組むこと自体が大切なわけではありません。長く取り組む、ということからまず約束されているのは、大きなコストがかかる、ということです。大きな価値を創造するために時間が必要なのだ、というロジックが示されていないと、企業が長期の取り組みを重視する意味がありません。

 冒頭の合宿で議論されていた長期の取り組みに近い意味で、大きな価値を創造するということを明確にして、世界の経営学者が盛んに研究しているのは、イノベーションです。イノベーションについては、論文等大変豊富にありますが、本コラムの論点に示唆を与えてくれるのが、「両利きの経営(Ambidexterity)」という概念です。

 早稲田大学ビジネススクールの入山章栄准教授は、「世界の経営学で最も研究されているイノベーション理論の基礎は、『Ambidexterity』という概念にあるといって間違いありません」と、最新著作「ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学」(注1)で述べています。この本は、大変わかりやすく、実用的な示唆に富んでいますので、皆さんにも是非ご一読をお勧めします。

 入山先生によると、「両利きの経営(Ambidexterity)」の基本コンセプトは、「まるで右手と左手が上手に使える人のように、『知の探索』と『知の深化』について高い次元でバランスを取る経営」です。「知の探索」とは、自社が持つ知の範囲を広げる取り組みで、「知の深化」とは、既に自社が持っている知から、目に見える収益を上げる取り組みです。

 イノベーションの研究では、短期的に効率が高い「知の深化」に偏り、「知の探索」を怠ることは、企業の中長期的なイノベーションを停滞させる「コンピテンシー・トラップ」として、一般化されています。また、短期の効率重視が組織を疲弊させる問題は、イノベーション研究の大家、ハーバードビジネススクールのクリステンセン教授も、今月来日した際の講演で指摘していました。つまり、短期の取り組みを優先し、中長期の取り組みが弱体化することは、よくあることとして経営学者に既に認識され、研究されているのです。

 それならば、「コンピテンシー・トラップ」に陥らないための具体的対策も研究されているだろう、と思うと、入山先生の書籍には、その論文の一つも紹介されています。ハーバード大学のタッシュマンは、2011年に発表した論文で、両利きの経営を実現する経営者には、下記の3点が必要だと述べています。

1)自社の定義する「ビジネスの範囲」を狭めず、多様な可能性を探求できる広い企業アイデンティティーを持つこと
2)「知の探索」部門と「知の深化」部門の予算対立のバランスは経営者自身がとること
3)「知の探索」部門と「知の深化」部門の間で、異なるルール・評価基準をとることをいとわないこと 

 皆さんの会社で、この3点が経営者から明確に示されると、冒頭の議論のような戸惑いはなくなり、コンピテンシー・トラップを避ける両利きの経営が今まで以上に実践されるでしょう。

 タッシュマンの論文は、日本語訳も発表されています(注2)ので、こちらも是非ご参照ください。上記3点に関する、企業の具体的事例が記載されており、リーダーシップが不足すると、企業は一見合理的に見える選択の結果、「コンピテンシー・トラップ」に陥るものであることが示されています。

 中長期のイノベーションに取り組むと宣言するのは、成果が確実ではないだけに、勇気が要ることです。タッシュマンの論文が示唆しているのは、イノベーションは、個人の勇気だけでなく、経営者の勇気を巻き込んだ、組織の総合力を発揮する取り組みなのだ、ということです。

(小川 康)

注1:日経BP社2015年11月発行、第5章ご参照
注2:DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー2011年9月号「双面型リーダーの条件」(この翻訳では、Ambidexterityを双面型と訳しています)