総選挙が終わり、再び自民党中心の政権が誕生する見通しとなりました。本稿執筆時点で与党となるのはどの政党になるかははっきりしていませんが、自民党、公明党の2党で衆議院議席の3分の2を超えるため、参議院で否決された法案を衆議院で再議決することも可能な見通しとなりました。しかし、衆議院で多数を占める自民党・公明党など新しい与党は、参議院では多数派にならない、いわゆる「ねじれ」の状態が、少なくとも来年夏の参議院選挙まで続く見通しともなっています。

「ねじれ国会による決められない政治」という理由付けや問題提起が、前々回(2007年)の参議院選挙以降、よく言われるようになりました。衆参の両院で別々の会派が多数派となることで迅速な政策意思決定ができないことが問題であるという指摘ですが、そもそも「ねじれ国会」は最近初めて起こった現象でしょうか?「ねじれ」てない状態が長い間続いた普通の状態で、迅速な意思決定ができないねじれ国会は短期的に起こる異常な状態なのでしょうか?今回のコラムでは、戦後の日本の政党政治を振り返りながら、衆参両院で多数派が異なる場合の合意形成がどのように図られてきたかを確認しながら、「決められない政治」の理由について探りたいと思います。

 戦後、衆参両院で単独与党、もしくは複数の政党が与党として合同した同一会派が過半数を超える多数派になったのは、現在の憲法施行後約65年のうち約7割の46年ですが、単独政党=自民党が衆参両院で過半数を超える多数派を維持できたのは、半分強の34年に過ぎません。残りの期間は、現在と同じく、衆議院と参議院で多数派が異なる状態でした。その時期ごとの状況を順に振り返ります。

 現憲法下で自民党ができる以前(1947年から1955年)は、衆議院で多数派となった与党が参議院では多数派でない状態が続いていました。この時期で特徴的なのは、現憲法とともに発足した当初の参議院は衆議院とは異なり、どの政党にも所属しない議員が多数派であったことです。これは、戦前に参議院の代わりに存在していた貴族院が、多数派の政党がリードする議会である衆議院に対し、「政党政治の防波堤」となり、国権主義(国家の権力が強化されてこそ、国民の権利や自由が保持されるという考え方)の保持に寄与するという思想を持っていたことと関連しています。
 発足当初の参議院では、かつて貴族院議員だった人々を中心に、「党の決定」を決めず、議員個人の判断で法案の是非を考える、政党ではないグループ「緑風会」が1950年代前半(昭和20年代)まで大きな勢力を持っていました。緑風会のメンバーは、貴族院議員からスライドした人々や、官僚出身者、文化人などで構成されていました。このグループが政党と大きく異なる点は、「党としての決定に所属議員は自動的に従う」という党議拘束が存在せず、所属議員個々の判断で法案の是非を決めていたという点です。したがって、場合によっては同じ法案で緑風会内に賛成者と反対者が分かれるという現象が起こっていました。緑風会と衆議院の多数派との合意形成ですが、前述したメンバー構成からも分かるように、現状の体制を維持する方向性を持っていたため、保守与党(自由党など)との連携は取りつつ、適宜法案の修正を行うことで独自性を発揮してきた傾向がありました。
 しかし、衆議院の多数派である与党側からすれば、個々の議員によって与党が提案した法案に対する態度が異なるのは多数合意を形成する上で大変な手間がかかっていたようです。

 このためか、与党は徐々に官僚出身者など、緑風会のメンバー足りうる人々を自党の候補として擁立するようになります。これが参議院の政党化の始まりです。保守勢力が合同して自民党が結党(1955年)後、長らく自民党単独で衆参両院の過半数を維持します。自民党は衆議院同様、参議院でも個々の議員が党の決定に従う党議拘束をかけていたので、こうなると衆議院の議決と参議院の議決はほとんどが同じ決定となり、2つの院が存在する理由が希薄となりました。自民党が両院で安定多数を維持していた1960年代頃から、参議院は「衆議院のカーボンコピー」と言われるようになります。

 長らく続いた単一政党による両院の多数派形成が崩れるのは1989年。この年から導入された消費税、またリクルート事件に対する自民党への強い反発が参議院選挙で表れました。自民党は改選議席数126の3割にも満たない36議席の獲得に留まりました。これ以降、現在に至るまで単一の政党が両院とも過半数を占めることはなく、「ねじれ」とそれを克服するための連立の時代に入ります。とはいえ、1989年から1993年の自民党下野までの4年間は、公明党、民社党が自民党の提出した法案に修正を加えさせながら自民党と協調し、合意形成を図る、いわゆる「自公民路線」を構築します。しかし、表向きは公明党・民社党とも野党の立場のままで、自民党と連立を組むことはありませんでした。これは長らく単独与党であった自民党が連立に対して拒否感が強かったことが背景にあるようです。

 しかし、1993年の自民党分裂、非自民8会派による連立政権(細川内閣・羽田内閣)以降、1994年の自民党・社会党・新党さきがけによる連立政権(村山内閣・橋本内閣)と連立による両院多数派形成が「ねじれ」の解決策となります。政党の志向性が大きく異なるのに連立政権として与党に参画することを「野合」であるとの批判が生まれたのもこの頃からです。
 約4年にわたった自社さ連立政権は1998年の参議院選挙の直前に解消されました。しかし、直後の参議院選で自民党は大敗、再び「ねじれ」が起こります。直後に発足した小渕内閣は、当時のバブル崩壊後の金融危機に対応するための国会審議で、参議院の多数派である野党が国会運営を主導する形を取ったため、自民党は野党だった民主党、自由党などの対案を丸飲みする形で合意形成を図りました。自民党はこれに対抗すべく野党の分断と連立による両院多数派形成の手を打ちます。この結果、翌年(1999年)に自由党、続いて公明党が自民党と連立し、自自公連立政権が発足し、参議院で過半数を確保します。

 自民党と公明党(自由党は途中で分裂し、連立与党に残った分派(保守党)は自民党に吸収)による連立政権は長く続き、2009年の民主党中心の連立政権まで約10年間継続しました。しかし、その末期の2007年、再び「ねじれ」が起こります。安倍内閣の下で行われた参議院選挙で、「消えた年金」問題や複数の閣僚の不祥事により自民党が大敗し、結党以来初めて比較第1党の座を他党(民主党)に明け渡すことになりました。しかし、この2年前に行われた衆議院総選挙(郵政選挙)で自民党が大勝していたため、連立与党が衆議院の3分の2を超えており、参議院で野党多数で否決された法案を衆議院で3分の2以上の賛成で法案成立とみなす、衆議院の再議決を行うことが可能でした。実際、2008年1月より福田内閣、麻生内閣の下で衆議院の再議決による合意形成が多用されます。この間、「ねじれ」を解消するため、福田内閣において当時の最大野党である民主党と自民党による大連立の構想も持ち上がりましたが、民主党内からの強い反発によって実現せず、翌年の衆議院総選挙における民主党大勝、民主・社会・国民新党による連立政権によって「ねじれ」は解消されました。
 しかし、民主党を中心とする3党連立政権による両院過半数確保の期間も長くは続きません。10か月後の翌2010年の参議院選挙では菅首相が消費税増税を政治課題として取り上げたことが影響し、連立与党が過半数割れし、再び「ねじれ」の状態に陥り、今日に至ります。

こうして振返ると、単一政党による与党であれ連立与党であれ、両院で総議席数の6割前後の安定的多数を維持する状態であった期間は、高度成長期の自民党単独政権の15年程度に過ぎません。それ以外の多くの期間、国民は与党が何でも迅速に、用意に決定できる状態とならないよう、野党に一定勢力を与えるバランスを持たせる選択をし続けたと言えるのではないでしょうか。つまり、国民の多くが望んだのは、実は「簡単に決めさせない政治」「急に物事が変わらない政治」であったのではないでしょうか。この選択傾向が続くのであれば、衆議院で3分の2以上の多数を持つ次の政権が衆議院再議決を連発すれば、来年の参議院選挙では再び「ねじれ」が強まる結果になるのでは、と予想します。

ところで、最近の選挙の開票特番では、テレビの画面上に視聴者からのメールやツイッターの文面が表示されます。先日の総選挙の開票速報を見て印象に残ったのは、「投票率が60%割れ。決められない政治を批判する国民が政治を決められない」というメールでした。「決められない政治」は、実は投票しない人も含めた「意思決定できない、意思決定に参加しない」国民の写像なのかもしれません。

(井上 淳)