クレイトン・M・クリステンセン教授の「イノベーション・オブ・ライフ」(翔泳社) 」を読みました。クリステンセン教授は、ハーバード・ビジネススクール教授で「イノベーションのジレンマ」で有名な経営学者です。しかし、本書は、ビジネスについてではなく、一人一人の人生について、経営理論を応用して考えてみよう、とクリステンセン教授が語りかけてくる内容です。人生に対して経営理論を応用しようという本書の発想は、理論というものは、これから何が起きるのか、それは何故なのかを知るためにあり、そして、自分にとって何が良くて悪いのかを深く考えるためにある、というクリステンセン教授の強い信念に基づいています。
人生に理論なんて応用できるのだろうか、と思われるかもしれませんが、クリステンセン教授本人、両親、家族と友人、そしてハーバード・ビジネススクールの卒業生達の実話を豊富に織り交ぜ、幸せな人生について真剣に考えてみよう、と熱く語りかけて来る内容です。
ところで、今回は日本語版を読んだ後、気になる部分は原文の電子書籍を読んでみました。電子書籍は検索が簡単にできるところが大変便利で、いくつか検索を試してみたところ、本書ではtheory は79回、happy、unhappy と happiness は合計で69回使われていました。全体で206ページなので、理論と幸せは、やはりよく使われている印象です。もう一つ、よく使われているように感じて調べてみたのは、success、successful、succeedです。こちらは合計で136回でした。ビジネスの成功は自分にとって幸せなのか、理論を応用して考えよう、というクリステンセン教授の姿勢が窺えます。
本書では、「幸せな関係を築く」「罪人にならない(Staying Out of Jail)」など、自分の胸に手を当ててよく考えなければならない人生の問題が多く語られていましたが、その中でも本コラムの読者に興味をお持ちいただけそうな「計算と幸運(Serendipity)のバランス」についてご紹介します。
ビジネスはどこまで計算できるのか、という視点から、ホンダのオートバイ事業のアメリカ進出時の事例がまず紹介されています。当初の戦略がうまく進まず、その間に生じた出来事がきっかけで、当初の戦略とは異なる形で大成功を収めた、という事例です。もう一つ、巨大スーパーマーケットチェーンのウォルマートも、当初の戦略とは異なる選択を行ったことが、巨大チェーンの繁栄につながったという事例を紹介しています。
このように、当初の戦略と異なる戦略が実行される背景を、クリステンセン教授は、ヘンリー・ミンツバーグ教授が提唱する「意図的戦略(deliberate strategy)」と「創発的戦略(emergent strategy)」の考え方から解説しています。
ホンダが、アメリカに既に巨大市場として存在していた大型オートバイ(ハーレー・ダビットソンのようなバイク)市場の開拓を計画し実行したように、よく考え抜いた計画を実行しているとき、「意図的戦略」を推進しているといいます。一方で、予期しない問題や機会が生じる(emerge)ことも、もちろんあります。このような予期しない機会を追求する戦略を「創発的戦略」といいます。
「意図的戦略」から「創発的戦略」への転換は、整然と進むものではなく、長い時間をかけて何が起きているのかを関係者が理解し、多様でむしろ無秩序なプロセスから、当初の「意図的戦略」に固執するか「創発的戦略」を選択するか、時には関係者の争いもありながら進められる非常に困難なプロセスである、とクリステンセン教授は論じています。そして、人生における計算と幸運に話題が進みます。
人生における「意図的戦略」と「創発的戦略」に関しては、クリステンセン教授は自らの人生を振り返って解説しています。クリステンセン教授は、大学一年生の時に大手新聞ウォールストリート・ジャーナルの編集者になろうと決めて、これは自分にとって「意図的戦略」だったと述べています。そして、ウォールストリート・ジャーナルに応募するわけですが、返事が来ず、意気消沈していたところにコンサルティング会社から誘いがかかりました。コンサルティング会社の経験は、ウォールストリート・ジャーナルに就職するのに役立つかもしれない、と考えて、まずはコンサルティング会社に就職します。その後、2回キャリアの選択があり、その際訪れた予期しなかった機会をそれぞれ「創発的戦略」としてまず選択し、その数年後にハーバード・ビジネススクールでの学究生活を「意図的戦略」として明確に選択し、クリステンセン教授は今日に至ります。
それでは、「意図的戦略」と「創発的戦略」のどちらを選択すべきかは、どうすれば判断できるようになるのでしょうか。ここで、クリステンセン教授は、ペンシルバニア大学ウォートンスクールのイアン・マクミラン教授とコロンビア・ビジネススクールのリタ・マグラス教授が開発した「Discovery-Driven Planning」(発見志向計画法、または仮説指向計画法)を紹介しています。その要点は、「どのような仮説が正しければ、成功するのか」を計画時に洗い出すことです。計画を実行していくうちに、当初の仮説が誤っていることがわかった場合には、「意図的戦略」を修正するか「創発的戦略」を選択する必要が生じます。当初の仮説が正しいと証明できれば「意図的戦略」をそのまま推進することによって成功に近づく、という考え方です。
クリステンセン教授は、「Discovery-Driven Planning」を人生に活用して、自分が幸せに生きるために重要な仮説をまず考えよう、そして、その仮説をすばやく費用をかけずに証明する方法を考えよう、と読者に呼び掛けています。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、インテグラートでは「Discovery-DrivenPlanning」を実践するビジネスシミュレーションソフトを開発しています。しかし、「Discovery-Driven Planning」を人生設計に活用するとは、思い至りませんでした。クリステンセン教授は、理論とは、人生の状況に応じて賢明な選択をする手助けとなるツールのことだ、と述べています。経営理論はこのように役立つのか、と新たな視点を与えてくれる、そして、新たな視点で人生を考えさせてくれる、お勧めの一冊です。
(小川 康)