日本の夏は常に戦争の影を感じさせる夏です。8月6日、9日の原爆忌、15日の終戦記念日と先の敗戦に至る大きな出来事が続いているためです。この破滅的な戦争に至る意思決定の過程に興味を持っていたところ、「昭和16年夏の敗戦」(猪瀬直樹著)に出会いました。本書では、先の太平洋戦争開戦の直前、「総力戦研究所」という機関が設立され、シミュレーションを繰り返した結果、「緒戦で勝利するが最終的に日本が必ず負ける」という結論を導き出していたことを追跡したルポルタージュです。今回のコラムでは本書を取り上げ、先の戦争を始める意思決定について考えてみたいと思います。

 総力戦研究所とは、イギリスやフランスの国防大学をヒントに、「国家総力戦に関する基本的調査研究を行う」ことを目的に内閣直属の機関として1940年(昭和15年)夏に閣議決定されました。その後、1941年(昭和16年)4月に第1期の研究生36名が入り、発足しました。研究生は中央省庁を中心に丸の内や大手町の民間企業、日銀、新聞記者も含む幅広い層から30代の若手エリートが選抜されました。

 一方で1941年春から夏の政治・外交の状況を見ると、同じ4月から日本の中国撤退を条件とする通商関係正常化のための日米交渉が始まっていました。既に4年前の1937年(昭和12年)から日中戦争がはじまり、日本は戦時下に入っています。しかし、松岡外相が日米交渉反対派であったため暗礁に乗り上げ、さらに前年夏からアメリカが石油と屑鉄の対日輸出を政府許可制に切り替えたことにより、戦争を遂行するための物資供給が逼迫していました。このため、米英に対して戦争を始めた場合の物資、特に石油確保の目的で7月末に南部仏印(フランス領インドシナ・現在のベトナム・カンボジア・ラオス)進駐を開始しました。これに対しアメリカは直ちに在米日本資産の凍結(イギリスとオランダも追従したのでこれを「ABCD包囲網」と呼びます)、8月1日に石油をはじめとする重要軍需物資の禁輸を決定しました。日本政府および軍部では対米英戦争必至の空気が広がり、一気に緊迫の度合いを高めていった時期となります。

 これと同じ時期、1941年の7月に総力戦研究所の研究生は「模擬内閣」を組閣するよう命じられました。ここから8月末までの2カ月弱という短い期間で「閣議」を繰り返し行い、課題の検討を行いました。与えられた課題は、「総力戦計画の立案」です。

 総力戦計画の立案においては、「机上演習」が方法論として採用されました。今でいうシミュレーションです。「総力戦」という言葉が独り歩きし、軍部でもその定義があいまいだったのですが、同研究所では「長期戦を予期すべき国家間の戦争において武力対武力の抗争のほか、あらゆる手段を尽くして相手国を屈服させるための諸方策」と定義しました。これに基づき、机上演習は武力だけでなく、国力全体の動員を予測し、算定することが求められました。そのために演習計画を十分に行い、前提条件となる「情況」を想定して研究員に提示する必要がありました。当初の情況はその当時の内外情勢を前提条件としたものでしたが、短期間のうちにその時点より先の情況が提示され、模擬内閣はそれに対応する方針を報告にまとめ、提出することを繰り返しました。最終的に情況は9期に分かれ、約1年後の1942年(昭和17年)10月までの推移をシミュレーションしました。

 時々刻々と推移する情況に基づくシミュレーションですが、模擬内閣が特に注目したポイントは次の2つでした。
・南部仏印進駐による石油の確保
・確保した石油の日本への確実な輸送=シーレーン(重要海上交通路)の確保
そして、この2点を総合した石油の需給バランスの経時的な予測が戦争勝敗の主要な指標と位置付けました。

 模擬内閣での想定は、南部仏印進駐で石油を確保しても、石油輸送船が海上で撃沈される量(消耗量)が造船量を上回り、石油輸送が困難となることで戦争継続が不可能となり、敗戦に至るというシナリオでした。模擬内閣メンバーが想定した日米戦に突入した場合の船舶消耗量は年間120万トンでした。実績は1942年89万トン、1943年167万トンで平均するとほぼ想定通りとなります。一方で造船量は年間60万トンの想定で、戦争が長期化すれば石油輸送は全滅する想定でした。このシーレーンの確保が戦争継続のキーファクターであると想定した模擬内閣に対し、政府および軍部は石油輸送商船の護送に関する統合的な配置計画は検討もされず、実際にはシミュレーション結果と同様、南部仏印で得られた石油は日本に送られなくなり、ついにはゴム袋に石油を詰めて海に流すという非合理的な手段が採られるようになります。

 このように短い期間でシミュレーションを繰り返した模擬内閣が、唯一、本当の意思決定者である内閣(第3次近衛内閣)に対してシミュレーション結果を報告する機会がありました。報告会は8月末の2日間にわたり行われました。この報告会の中で唯一、本当の内閣の閣僚で発言した人間がいます。東條陸軍大臣(開戦時の首相)です。その発言そのものはシミュレーション結果を肯定するものではありませんでしたが、閣僚の中で最も総力戦研究所のシミュレーション内容に関心を寄せていた人物でした。東條は2カ月後に天皇およびその側近から開戦回避の決断を導くよう指示を受けて首相に指名されましたが、このシミュレーション結果を活用することもなく、現実の意思決定に何ら影響を及ぼさなかったのは歴史の示す通りです。しかし、開戦の意思決定によって起こった事実はシミュレーション結果とほぼ同じ通りとなりました。

 本書では開戦の意思決定に関わった人物、組織について幅広く問題指摘を行っていますが、その中から現代の企業組織の意思決定にも通じる問題点を3点挙げたいと思います。

1) 総力戦研究所の位置づけが不明確なままであった:上記のシミュレーションは元々この研究所で予定されていたものではなかった。南部仏印進駐により当初予定していた各地の視察ができなくなり、代わりに急遽考え出されたものでした。したがって当然ながら、シミュレーション結果を政府・軍部がどう活用するかについても定義がなされず、その結果意思決定に反映されることがありませんでした。この研究所は3期生まで研究生がいましたが、1期生のようなシミュレーションが行われることもなく、何ら現実の意思決定に資する研究も行われず、最後は誰も研究生がいない状態となり、1945年(昭和20年)3月に廃止されました。

2) 戦争継続のキーファクターである石油資源の把握と予測を統合的に行なわなかった:前述のシミュレーションの際、模擬内閣の研究生がどうしても入手できなかったデータが「現時点の石油備蓄量」でした。民需用は把握できても軍需用の備蓄量のデータが入手できなかったのです。驚くべきことにそれは現実の政府・軍部内でも統合的に把握されず、陸軍・海軍で別々に把握され、最重要機密として外部に開示することがなかったのです。その結果政府と軍部がバラバラに石油の輸入を図り、輸入相手国であるアメリカに弱点を教える形となり、石油禁輸という致命的な交渉カードを切られたのです。

3) 不良債権を認めなかった:1941年当時、日中戦争開始から既に4年、その前の満州事変から数えると10年が経過していました。戦争行為を「投資」と捉えるのはいささか気が引けますが、著者は「戦争には『経済圏を守るための投資』という一面がある」と位置付けています。その上で、過去の中国における投資を回収不能な不良債権と認めると責任を追及されるため、さらなる戦争継続という意思決定を後押しした側面があると指摘しています。

 この3点を現代の企業に置き換えると次のように言えるのではないでしょうか。
1)分析やシミュレーションを行う組織を作っても、それをどう育て、既存の業務に組み込むかという継続的な検討が不足している。
2)組織全体の戦略シナリオを検討せず、各部門の個別最適のみをバラバラに追求した。
3)段階的な投資意思決定を行わず、またワーストケースでの投資継続可能性も検討せず、現場の判断で投資拡大が行われた。その結果、膨らんだ過去の投資額にとらわれ、その回収が難しいこと、すなわちサンクコスト(埋没費用)であることを認めたくないためにトップもしぶしぶ投資を継続する。

本書からは、先の戦争が単に「無能な集団が暴走した特殊なケース」だと単純に片づけられない、日本型組織における通弊を感じさせます。

(井上 淳)

(参考文献)
猪瀬直樹「昭和16年夏の敗戦、中公文庫、2010年