企業統治は企業経営の全般にわたり、それゆえ学問分野としても定義があいまいになりやすい分野であると思われます。私が修了した神戸大学MBAの創設者である加護野忠男先生が近著「経営はだれのものか」で日本企業の企業統治のあり方について論じています。今回のコラムではこの「経営はだれのものか」をご紹介しながら、企業統治のあり方や今の統治システムの是非について考えたいと思います。

 本書ではまず、日本的経営の特徴として、終身雇用と年功賃金による従業員からの「見えざる出資」があることを指摘しています。終身雇用を前提とした従業員は若年時に賃金を過少に受け取ることで会社に出資し、高年時に過大に受け取ることによって還付を受け取るという考え方です。このシステムによって従業員はその会社がうまくいくような経営に協力し、また監視を行う効果があることを指摘しています。このような従業員利益の重視を中心に、持合い株主、サプライヤー、顧客など多様な集団との長期的連帯関係を構築する「自律的統治をもとにした多元的牽制」が日本的企業統治システムであると位置づけています。
 反面、この日本型企業統治システムの問題点として、以下の3点を指摘しています。
1)多元的牽制が統治責任の所在を不明確にすること
2)内部者による自律的統治が内部の論理を優先させること
3)リスク回避的な意思決定が行われがちになること

 しかし、加護野先生は近年この長期的連帯関係が弱体化してきていると指摘し、この弱体化により日本企業は「戦略転換能力を失いつつある」「投資せずに、内部留保の積み増しを重視し始めた」「労務政策が劣化し、職場が荒廃しつつある。その結果、従業員の企業への一体感という日本企業の固有の強みが生かせなくなってしまった」と指摘しています。さらに、この長期的連帯関係の弱体化の原因として、近年導入された株主代表訴訟制度をはじめとした金融制度改革、会社統治制度改革を挙げています。
 指摘されている主な制度改革とその悪影響は次の通りです。
 ・ 株主代表訴訟制度の改定→リスク回避的志向をより高める
 ・ 四半期決算制度→意思決定者の短期志向を助長する
 ・ 内部統制制度の強化→多元的牽制の仕組みを壊す
 ・ 時価会計制度の導入→株式の持ち合いや子会社の上場を難しくする

 この加護野先生の問題認識については深く共感するところと一部異論があるところがあります。深く共感するところは上記のリスク回避的志向や短期志向の助長に伴って利益、すなわち投資効率重視の経営が広まったと指摘する点です。本書でも利益志向自体が悪いことではなく、利益のみを投資判断指標とすることで投資判断の対象となる投資案件が減ること、利益の予測が難しい新規案件が提案されなくなること、ステークホルダーへの支払いを減らすことによって利益を確保する「引き算経営」になることが問題であると述べています。私も先日ある製薬会社のOBの方のお話で、10余年前に利益率のハードルを過剰に上げたことにより将来の成長の源泉となる新規開発プロジェクトの多くが中止され、それがその会社の現在の苦境の原因となっている旨のお話をお聞きしました。投資効率を重視する場合は現状の製品が生み出す利益率が低い場合にはその改善の手段として有効ですが、どの会社にも一律で有効な手段というわけではありません。現時点で利益率の高い会社はむしろハイリスクな新規事業・新規領域の投資に腰を据えて取り組むことこそ必要で、そのためには個別投資案件の予測評価だけでなく、会社全体の業績予測推移を見る事業ポートフォリオ評価が必要であると考えます。

 一部異論があるところは、前述の制度改革が不祥事防止のための改革で、不祥事防止に過剰反応したことが改革失敗の原因としている点です。加護野先生は「仮にあらゆる不祥事をなくしたとして、企業はよくなるだろうか」と投げかけています。しかし、私は90年代以降の日本におけるバブル崩壊とそれに伴って発覚した不祥事の数々は「なくしたとしてよくなるだろうか」と言い切れるほど軽いものではなく、むしろ日本経済全体を停滞させた元凶といえるほど深刻なものであったと考えます。野口悠紀雄はこの深刻さを次のように表現しています。
「(バブル崩壊後)分かったのは、日本を代表する大企業の内部で、外からは窺い知れない活動が行われていたことだ。銀行本来の目的から大幅に逸脱した利益追求行為、ルール違反、不正取引、裏の世界への莫大な利益供与、等々。損失が生じても子会社などに付け替えたため、外からは実態が分からなかった。事態が深刻化すると、企業は犯罪的行為に手を染めた。人々は、日本企業の内実がこれほどまでに腐っていることを知って、唖然とした。さらに人々を慄然とさせたのは、一部上場の大企業が、裏の世界と密接に結びついていたことだ。」(※)
私は前述した日本型企業統治システムの問題点の1)2)がバブル崩壊後に発覚した様々な不祥事の原因であり、その反省がその後の日本における金融制度改革や企業投資改革につながったのではと考えます。少なくともグローバルで競争を行うにはこのような不祥事を絶つ必要があります。したがって、制度改革によるコンプライアンス強化や独立役員や株主によるチェック機能の強化、反社会的勢力の排除といった取り組みは、他国の企業と競争するために同じ土俵に乗るという点で一定の意味があると考えます。

 しかしながら、利益重視と同様、コンプライアンスが企業統治の中心を通り越して目的化することは、「羹に懲りてなますを吹く」行為に等しく、この点は加護野先生と同じ見解です。本書では「悪いことを防ぐ企業統治からよいことを行うための企業統治」への転換が必要と提案し、このための3つの評価基準を示しています。

 a) 成果:利益および利益を構成する市場シェアや売上高成長率の指標
 b) プロセス:挑戦的な中期目標が提示されているか、目標の達成につながる
ビジョンや戦略が示されているか、戦略が中期計画に落とし込まれているかなど
 c) 経営チームと組織の質:目標を達成する強い決意があるか、経営チームの
能力が高まっているか、将来のトップ候補が育成されているか、トップのリーダーシップが発揮されているかなど
その上で、これらの評価を行う上で適任なのは取締役会に出席し、役職員の調査権限も持っている監査役会であると示しています。

確かに、企業統治改革によって生まれた新たなルールを金科玉条のごとく順守することが経営の目的ではなく、加護野先生が再評価する長期的連帯を基にする企業統治を復活させることは日本型経営の強みを取り戻すうえで必要だと考えます。反面、真に客観的な、利害関係を持たない外部の視点が皆無であれば、再びバブル期のような不祥事の隠ぺいを目的とした悪い企業統治が生まれることになると考えます。この点において今世紀初頭から広まった一連の企業統治改革の全てが日本の企業統治にマイナスであったとは考えられません。したがって、制度改革で生まれた新たなルール・枠組みの中でいかに長期的な視点で連帯していくかというリバランスが必要だと考えます。これは突き詰めれば、本書のタイトルの通り「経営の主権者はだれか」という問いになります。加護野先生はこの問題をあるべき姿は何かという規範論と、実際はどうなのかという現実論に分けて論じていますが、両者とも一意の答えはありません。経営者・従業員・株主などのうち、だれが主権者であるかという問いは、私どもが関わる事業投資判断の場面における「何が判断基準であるべきか」という問いと通じる、各社の置かれている状況によって異なる、どの会社にも共通する正解がない問いであると思います。

(井上 淳)

参考文献:加護野忠男「経営はだれのものか 協働する株主による企業統治再生」、日本経済新聞社、2014年
(※)野口悠紀雄「戦後日本経済史」、新潮社、2008年