7月下旬~8月上旬に、ロシアにて世界水泳選手権が開催されました。
スポーツに携わっている筆者も連日テレビで観戦していたのですが、その中で事業投資の考え方にも通ずると感じたエピソードがありましたので、今月のコラムでご紹介したいと思います。

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 競泳女子200メートルバタフライで、日本の星奈津美選手が金メダルを獲得しました。日本女子初の世界選手権金メダルという快挙の裏には、平井伯昌・日本代表ヘッドコーチが決勝のレース前に伝えた指示がありました。
「スタートしてから3かき目まではゆっくり。軽い感じでいけたらいい」
もともと後半の追い上げが強みの星選手が、準決勝後のレースで後半の伸びを欠いたことに対するアドバイスです。果たして決勝では前半を抑えた分、後半に逆転して逃げ切るという思い描いた通りのレース運びになりました。(注)

 まず、競泳という競技を事業投資に置き換えてみます。競泳は、決められた距離を(決められた泳法で)最も早いタイムで泳いだ選手が優勝します。
そこで重要になる要素としては、泳ぐ選手の特性やその時の体のコンディション、ライバル選手の状況や会場・プールの特徴などが挙げられます。これを事業投資の採算性評価で読み替えると、製品・サービスを開発し市場展開をして投資を回収していくまでのライフサイクルにおいて、高い収益を上げることを目指すことになります。そのためには、事業のポテンシャル(泳ぐ選手の特性)や事業の現時点の状況の適切な把握(その時の体のコンディション)、競合製品・サービスの情報(ライバル選手の状況)や市場環境の変化への対応(会場・プールの特徴)が重要なポイントとなります。同様に、前半のスピードを抑えて力を蓄え後半の勝負どころで貯めた力を発揮する、という競泳のレースプランを事業投資の採算性評価に置き換えてみます。すなわち、開発初期段階では採算性が一時的に悪化しようとも投資を積極的に行い、事業を成長軌道に乗せる段階で競合との差をつけ収益を拡大する、という収益の流れになります。

 この認識に基づき、改めて平井ヘッドコーチの言葉を聞いてみると、筆者は2つのことを感じました。

 まず1つは、率直に疑問に思ったのですが「なぜ、1かきや5かきでなく3かきなんだろう」ということです。おそらく、金メダルを取る=最も早いタイムで泳ぐ、という目標を達成する確率を最大限高めるために、平井ヘッドコーチが上述の重要になる要素を踏まえて判断した結果の指示だと思われます。そして、コーチと選手の日頃の信頼関係を基に星選手がコーチの指示を納得して本番で実践しが結果が出たわけですが、果たしてこれが事業投資の場面ではどうでしょうか。例えば「製品開発にもう3億円を追加投資すれば、将来の収益が増えてトータルでの価値を最大化できます」との提案が現場から上がってきたとして、投資の是非を判断する経営陣はそのまま納得できるでしょうか。
あるいは「将来の収益を増やしトータルでの価値を最大化するため、製品開発にもう3億円を投資追加するように」との指示が経営陣からなされたとして、事業を実行している現場部門はそのまま納得できるでしょうか。おそらくどちらの例にしても、「なぜ、1億円や5億円でなく3億円なんだろう」という疑問が生じ、そのまま納得することは難しいのではないかと思います。納得度が低い、ということは、(弊社が基礎とする方法論の一つである)戦略意思決定手法における意思決定の品質を下げることにつながり、好ましくないと言えます。

 競泳の場合と事業投資の場合でこの違いが生じる最大の理由を、筆者は以下のように考えます。つまり、前者は基本的にはコーチと選手という2人しか登場人物がおらず、日頃の練習を通じてお互いのことがよくわかっています。そのため、本番前にコーチから受ける指示が結論だけの端的なものであっても、選手はその狙いや背景が理解できコーチの意図が100%伝わるので問題がありません。一方で、事業投資は組織的に行うものであり、経営陣・現場始め多くの関係者が関わっています。社内に多くの事業案件が存在する中で、個々の事業投資についての各関係者の理解共有度は決して高くありません。そのため、単に結論だけの提案・指示では、その受け取り手には意図が伝わらず、判断や実行に対するコミットメントが低くなってしまうのです。従って、限られた時間の中で関係者間での意識共有のレベルを上げるためには、提案・指示の根拠を各関係者が理解できる程度にまで論理的に説明することが必要となるのです。

 2つ目は、これは素直に感心したことなのですが、指示の表現が「最初の15メートルや5秒」でなく「3かき」ということです。上述したように、競泳という競技での成績(=事業投資で言うところの評価指標)は距離(メートル)と時間(秒数)によって客観的に規定されます。つまり、距離や時間に関して指示を与えた方が、より成績の指標に直接的に近いので、客観的な視点では管理把握がしやすいと言えます。一方、手をかく、という動作に着目すると、それによって進む距離や要する時間は選手の体格・泳ぎ方によって、あるいはその時の体のコンディションによっても若干異なるので、成績の指標との結びつきが距離(メートル)や時間(秒数)ほど強くないので、客観的な視点では管理がしにくいと言えます。しかし選手にとってみると、距離や時間というのは、あくまで自分の「かく動作」によって生まれてくる結果です。従って、かく動作そのものを直接的にコントロールした方が、結果の数値をコントロールするよりも、やりやすいと考えられます。平井コーチはおそらくこのことを熟知した上で、選手がコントロールしやすい指標に置き換えてアドバイスを出したのでしょう。このことを事業投資に当てはめると、コントロール・管理の対象として言われる評価指標は、とかく最終的な目標指標である収益・利益のみが取り上げられがちです。しかし、事業投資を成功に導くために本当に有用な管理指標は、事業を行う現場にとってコントロールしやすい指標にまで落とし込んでおく必要があるのです。

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 以上、コーチの言葉から事業投資にも有用と思われる考え方を述べましたが、実はそのエッセンスは(弊社が基礎とする方法論の一つである)仮説指向計画法、その中の特に逆損益計算法の概念に通ずるものです。この概念についての詳細は、(今月のインサイトでもいくつかご紹介しておりますが)弊社が主催または講師を務めるセミナーにてもご紹介しておりますので、ご興味のある方はぜひご参加いただければ幸いです。

(楠井 悠平)

(注)「世界水泳:体力温存、終盤逆転 女子200バタ金の星」毎日新聞
2015年08月07日
http://mainichi.jp/sports/news/20150807k0000e050218000c.html