仮説を考えることは本来楽しいものである

NHKのEテレで23:55から放送している2355という番組の小さなコーナーとして「BAR仮説」があります。このコーナーはお笑いコンビのロッチさんがバーで会話しているという内容です。関西出身の私には、関西弁のやりとりもなごみます。
どんな会話かというと、まずどちらかが日頃の素朴な疑問を喋ります。「板チョコってなんでマス目になってるんやろね?」(ボケ)みたいな疑問です。で、同時に仮説を立てるんです。「俺の仮説ではチョコを割ってシェアしやすいようにしてるんやないかと思う」、とか言います。そしたらもう片方が批判(ツッコミ)を入れてきます。「でもこんなに細かく分ける必要ある?ケチすぎるて思われるんちゃう?」みたいな感じです。そして続けて自分の仮説を立てるんです。
そうこうしてたらバーのマスターが割り込んできて、実はそのマス目の理由はね、と教えてこようとします。でもロッチの二人は「もうちょっと仮説楽しませてーな」といって遮ります。それでコーナーは終わりです。正解を伝えないところがなんともモヤモヤしてしまうのですが、このモヤモヤに対して自分なりのハッキリ感を得るアイデアを考え続ける、というところに番組のちょっと深い?メッセージが込められているような気がします。

世の中の大半の人はあまり考えていないのではないか、それは仮説を立ててないということかもしれません。今はいつでもググれる時代です。簡単に情報にアクセスできます。
おそらく多くの人はそれに頼りきって自分の頭で考えないのではないでしょうか。
いやGoogleや情報社会のせいだけじゃない。そんなものがなくても考えない人たちは偉い人が言ったこと、皆んなが言ってることに何も考えずに従って生きていく、そのほうが楽かもしれません。

インテグラートのコンサルティングの現場でお客様からも「どうすれば、正しく仮説が立てられるのでしょうか?」という質問を頂くことがよくあります。
この場合、しっかり考えようと真剣に知ろうとされていることが良くわかります。しかし、本稿、結論からで恐縮ですが、楽しむことが第一歩と申し上げたいわけですね。

探索する仮説・深化する仮説

とはいえ仮説にも、筋のいい仮説、重要な仮説、そうではない仮説などのさまざまなものがあります。正しい仮説が唯一存在するのではなく色々な仮説がある。その中から目的に照らしてもっとも近いものを選択してゆくと考えると良いのではないでしょうか。
また、仮説を問いに対する説明や回答と捉えると、大きく2つの種類があると思います。ひとつは、広く可能性や対象を広げてゆくもの、もうひとつは、対象に対して掘り下げてゆくものです。前者の仮説に対する問いは、いわゆるオープンクエスチョン、後者はクローズドクエスチョンです。

例えば、、「この新たな技術の事業化についての市場はどこが狙い目なのか?」と言う問いに対して「市場となる可能性は、成長性から見るとA、b、cがあり、他にもX、Y、Zも考えられます。」と言う場合は、可能性を広げてゆく仮説です。これに対して「どちらも成長市場ではあるがA、b、cの市場はX、Y、Zの市場よりも新規参入や競合が少なく、技術の適用可能な用途開発の親和性が高いため有望と考えられる」という場合には、後者の仮説となるといった具合です。

最初から厳密な意味での正解と言う「点」を探すのではなく、可能性を創造するという思考態度によって「線」や「面」をとらえながら重心を探し当ててゆくような感覚とでも言いましょうか。特に将来や未来の結果に関する唯一絶対の正解は存在しないわけです。

もう少し視点を変えて仮説の方法を理論的見地から考えてみたいと思います。

仮説とは「前提条件の主張」であり、主張をより良く説明をするための方法は、論理学の世界で云うところの演繹、帰納、がありますが、第三の方法としてアブダクション(仮説形成)があります。アブダクションは、関連する証拠を最もよく説明する仮説を選択する推論法として知られており観察された事実の集合から出発し、それらの事実について尤もらしく、ないしは最良の説明へと推論する方法です。

また心理学や最近のAI機械学習・コンピューターサイエンスなどでは推論・推定の方法としてヒューリスティクスと呼ばれている発見的手法を用いて、必ず正しい答えを導けるわけではないが、ある程度のレベルで正解に近い解を得ることができ、答えの精度が100%保証されない代わりに、解答に至るまでの時間が短いという特徴があるとされており、特に全く手がかりのない段階での仮説として有効な考え方です。

仮説によって行動する人間になる

少し、話がややこしくなってきましたので、元に戻そうと思います。

なかなか自分自身が出来ていないという自戒の念も込めて、「何事も自分事として引き寄せて考える」ことが何よりも重要だと常々思っているのですが、未来のことを考え、説明するときの方法に「慣れる」「馴染む」「使いこなす」ということが必要だと思います。

グローバルな社会に向き合ってゆく重要な条件の一つは、自分の頭で考え、表現する習慣と訓練がされているか否かであることは間違いないと思いますが、とりわけこれからの社会で仮説を推論することが重要な能力になると言われています。私もまったく同感です。

自分たちの将来を考え、仮説を得る思考の糧をどこから得るかは、詰まるところありたい未来、実現したい夢を切望し手に入れたいと渇望し、必死になる、本気になる、スイッチが入るということではないでしょうか。

加えて、何が答えかわからない困難に直面したときに必要とされるのは仮説を推論する力であり、正解が得られるまで立ち尽くしてしまうのではなくより良い選択肢を探して前に進み続ける行動力だともいえるのではないでしょうか。行動することによってモヤモヤしていたことが、より具体的でハッキリと見えてくるということがあると思います。

仮説は生きている

最近鑑賞した「博士と狂人」という映画があります。全米でベストセラーとなったノンフィクションに基づく歴史劇で、初版発行までに70 年以上の歳月を費やした辞典『オックスフォード英語大辞典』の製作に携わった異端の博士と、殺人犯による共同作業と友情を描いた秀作です。そのなかで印象に残っている終盤のメッセージでこんな事が語られています—『言葉は生きているので、永遠に辞典を完成することはできない。常に新しい言葉が生まれ、古い言葉は忘れ去られてゆく。。しかし言葉を捉え記録してゆくという仕組みの礎を創ることによって、世代継承をしてゆくことができる。。。』

まさに、仮説も生きています。新しい仮説が生まれ、古い仮説は更新されてゆく。単に仮説の推論力をプロセスや能力として高めるにとどまらず、事業仮説構築のための仮説を捉え、記録してゆくという仕組みを創ることによって、私たちの未来への思考の挑戦を世代を超えて継承し高めてゆくことができるのではないでしょうか。
言葉として語られるまま消えてゆく膨大な仮説の「ダム」をつくり上げることによって、持続的に事業継続発展してゆくための仮説オプションを次々と創造し続けることができると信じます。

過去の成功・失敗を振り返り、繰り返し考える経営の因果律は、名経営者の経験値として蓄積されます。身近な先輩や同僚の経験値であっても未来に向けて考えつづける上で、仮説検証として上手くいかないかった方法、上手くいった方法を記録することは、着実に新しい技術、市場のリスクへのチャレンジの組織学習となり事業創造のスピードと成功度を飛躍的に高める事になると思います。インテグラートSaaSのDeRISKにはそのような姿を実現するという思想が込められています。

最後に、「仮説」というと堅苦しいイメージがありますが、日常的に楽しむ会話の中にもヒントがあるのではないでしょうか。今日もBar仮説の会話が始まります。

名田 秀彦