現在のコロナ禍の下での複数回にわたる緊急事態宣言、それに伴う在宅勤務などステイホームの推奨によって行動の制約が増えました。これに反比例するようにスマホを触る機会が増えたのではないでしょうか。私の場合、スマホのニュースアプリで最新ニュースに触れることが日常的になっています。
ご存じの方も多いかと思いますが、ニュースアプリは最適化の機能が搭載されており、クリックしたコンテンツやタイミングなどの履歴をもとに、その人に合った記事コンテンツが表示されます。
私の例では、ニュースアプリで東洋経済、ダイヤモンド社、プレジデント社の記事がまとめて読めるので、部下のマネジメントに関する記事を読むことが多いです。このため、アプリは「この人は上司側の人間である」と最適化判断しているようで、これらに関する記事が上位に表示されることが多くなりました。その反面、部下の立場にいる人が読みそうな「こういう時に上司は何を考えているのか」「上司に言ってはいけないNG言動」のような記事は出てきません。また、記事の間に表示される広告では年齢も推定されているようで、最近は「おっさんゲーマーが暇つぶしにやってる無料スマホゲー30選」という広告が何度も表示されます。おそらく年齢層に加え、性別も推定されているのでしょう。
雑誌もスマホなどネットで読む機会が圧倒的になりました。ネットでは見出しだけが表示されていて、見たい見出しをクリックすると記事本文が表示されます。
私は日経ビジネスを定期購読していますが、これもネット版では閲覧履歴を記録することができて、スマホのお知らせに表示される記事の見出しは、最適化された、その人が読みたいと判定された見出しになっているようです。
従来の紙媒体のメディアに比べるとページをめくる手間もなく、すぐに読みたい記事が読めるのは効率的ですが、このような~その人に関心のあるテーマ、考え、意見と同じ、あるいは関連するコンテンツに取り囲まれた~状態になると、自分の知りたい、同意しやすいコンテンツばかりに触れることになり、自分は関心がない、あるいは同意できない内容のコンテンツは最適化処理により除外され、目に触れなくなります。
このことを「フィルターバブル」と言います。フィルターバブルとは、自分の見たい情報以外の情報をネット上で触れることができなくなり(フィルタリング)、自分の意見や感覚に合わなかったり、相反したりする情報から隔離され、同じ意見を持つ人々同士で集まるようになり、その小さな文化的・思想的な皮膜(バブル)の中にとどまるようになることです。
また、そのバブルの中で特定の意見・信念を持つ者同士がSNSなどでコミュニケーションを繰り返して共鳴しあい、特定の意見・信念が増幅されることを「エコーチェンバー現象」と呼ぶそうです。
フィルターバブルからのエコーチェンバー現象の強化は、昨今のコロナ禍のような、必要な対応の選択肢や、今後の見通しに関する意見が複数に分かれるトピックの場合、特に起こりやすくなっていると感じます。このような状況下で怖いのは、相互理解の低下とそれによる対立の増幅です。このような時にこそ、ネットから離れ、紙の雑誌を読むべきではないか、と考えます。
紙の雑誌は、見出しだけ見えるのは目次のページだけで、そこで見たいものを探せても、自分でめくらなくてはいけません。その間に偶然めくったページで、見落としていた見出しや興味がないと思っていた内容に思わず目をとめて、じっくり読んでしまうことがよくあります。私が年末年始に家で読もうと買った「文藝春秋新年特別号」では、メイン特集の「日米中激突」の座談会の前にあった巻頭コラムで藤原正彦が書いている「模倣という独創」に目を奪われ、「週刊文春新年合併号」では「未完の人 志村けん」というレポート記事を読もうとめくっていると、その前にあった「飯島勲と西川きよしの特別対談」という組み合わせの異色さに驚き、読み込んだことがありました。
藤原正彦も西川きよしも今の私の知識や興味の範疇では自発的に検索して探したりはしない人たちで、そのような人の意見や発言に触れることは新鮮な気づきをもたらしてくれます。
紙の媒体のような偶然に、多様で雑多な、自分とは正反対の意見・議論にも触れることは、「人の置かれている立場や年齢、経験などによって考えや意見は様々だ」という当たり前のことに気づかせてもらうことができます。この一見非効率なアナログ媒体による異形との遭遇は、あたかも生体の恒常性の維持のように、自分の中の知識や意見の視野を広げ、バランスを保つには必要な行動ではないでしょうか?
(井上 淳)