少し前になりますが、筆者(小川)は3月18日に日本CFO協会の企画で、エーザイの柳CFO(当時)と対談させていただきました。柳様は、現在はエーザイのシニアアドバイザー、早稲田大学客員教授、アビームコンサルティングのエグゼクティブアドバイザー等として幅広くご活躍です。本コラムでは、対談当時の柳様の肩書から、柳CFOとして進めさせていただきます。

柳CFOは、長年の研究に基づき、「柳モデル」という、ESGなど非財務の価値と企業価値の関係を説明する、画期的な手法を開発しています。本コラムでは、「柳モデル」がもたらす重要な示唆の一つで、特に投資意思決定のリスクテイクに大きな力となる「遅延浸透効果」についてご紹介します。

企業価値は、投資家が企業を評価して決めるものです。投資家が各企業を評価する際、投資家が主に参考にするのは、各企業からのIR等の開示資料です。開示資料が企業価値を左右しますから、適切な開示はどうあるべきか、頭を悩ませている企業が多いと思います。

企業からの開示は、伝統的な財務諸表を基礎とすることが一般的です。しかし、伝統的な財務諸表では、伝えきれない価値があるのではないか、伝えきれていない価値を伝える新たな手法が必要なのではないか、という強い問題意識から、エーザイの柳CFOが開発したのが「柳モデル」です。以下、ご紹介する「柳モデル」の出典は、柳様の著書「CFOポリシー第2版」です。

エーザイでは、チームを組んで、およそ年間800件の投資家面談を行っているそうです。この数を見るだけで、エーザイがいかに投資家との関係を重視しているかが伝わってきます。投資家との関係について、企業側の姿勢、投資家側の姿勢、日本と世界の比較など、柳CFOは広範かつ詳細に長年研究を積み重ねてこられました。

研究結果に基づき、柳CFOは、日本企業の開示の問題を厳しく指摘しています。しかし、柳CFOは、問題指摘にとどまらず、問題を解決するために「柳モデル」の開発に至りました。「柳モデル」は、伝統的な財務諸表による開示の限界を超える、グローバルに通用する可能性のある新たな企業価値説明モデルとして、日本だけでなく海外でも注目されています。

本コラムでは、「柳モデル」の全容まではとてもご紹介できないのですが、発表されている内容の中で、特に「遅延浸透効果」に関する部分をご紹介いたします。「柳モデル」の開発過程で、柳CFOは、エーザイ社内のデータを可能な限り収集し、エーザイのESGと企業価値の実証研究の成果の一部として、下記の情報を2020年の統合報告書で開示しました。

・人件費投入を1割増やすと5年後のPBR(株価純資産倍率)が13.8%向上する
・研究開発投資を1割増やすと10年超でPBRが8.2%拡大する
・女性管理職比率が1割改善(例:8%から8.8%)すると7年後のPBRが2.4%上がる
・育児時短制度利用者を1割増やすと9年後のPBRが3.3%向上する

なお、これはあくまで相関関係であって、因果関係の説明には具体的なESGプロジェクトの開示と対話の蓄積が極めて重要になる、と説明しています。相関関係と因果関係を混同しないことは、このようなデータ分析の活用において、注意が欠かせないところです。

統合報告書で開示されたこの分析結果は、エーザイ固有のものです。そこで、「柳モデル」が広く多くの企業にも一般的に当てはまるものなのかを確認するために、TOPIX100企業についても、人件費・研究開発費とPBRの関係が分析されました。そして、TOPIX100企業の膨大なデータの分析結果として、TOPIX100企業を対象とした場合でも、エーザイを対象とした場合と、基本的に整合する以下の結果が得られました。

・人件費投入を1割増やすと7年後のPBRが2.6%上昇する
・研究開発投資を1割増やすと7年後のPBRが3.0%上昇する

ここで注目いただきたいのが、5年後~10年超という、投資が成果として実を結ぶまでの時間です。柳CFOは、これを「遅延浸透効果」と呼び、非財務資本が財務資本に転換されるには時間がかかる、と説明しています。

私は、この「遅延浸透効果」という考え方と、膨大な実証分析の結果、投資実行のタイミングから成果が得られるまでの年数が、具体的に示されたことに、強く感銘を受けました。

投資意思決定が、なぜ難しいかと言えば、リスクがあるからです。リスクがあるということは、計画した通りにならない可能性がある、ということです。意思決定者が投資をためらうことは、投資が計画通りにならず、会社に損失を与える可能性があることを考えれば、当然とも言えます。リスクを踏まえたうえで「この投資は、成果をもたらすのだ。なぜならば、、、」と言いたいところ、なかなか言い切れない、こういう悩みをお持ちの方は多いのではないでしょうか。

私は、「遅延浸透効果」が具体的な年数として示されたことは、リスクに立ち向かう人々にとって、極めて重要な示唆になる、と受け止めました。もちろん、個別の投資には個別のリスクがあります。しかし、一般化された「柳モデル」で研究開発投資の「遅延浸透効果」が示されたことは、企業価値向上を目指すリスクテイクが、時間差を経た後に報われることを、統計的にデータで説明していることになります。

企業価値向上を目指す投資の議論では、「本当にそうなるの?」と疑問を呈されることがよくあり、当然ともいえます。このようなときに、定量的なエビデンス(証拠)として、「柳モデル」が示す「遅延浸透効果」は、議論の一助となるのではないかと思います。そうであれば、多くの方に知っていただく意義はとても大きく、本コラムで是非皆様にご紹介したいと考えた次第です。

今までも、研究開発部門の方々と、投資意思決定に関する議論や、そもそも研究開発のリターンを経営上どう評価すべきか、という議論を何度も行ってきました。経営における研究開発の重要性といった定性的な議論になりがちで、とても難しい議論です。この議論に対する一つの答えが、研究開発部門からではなく、投資家への対応という視点から導かれたことも、大変感慨深いです。これも、コーポレートガバナンス・コードをはじめとするESG重視の、大きな時代の流れがもたらした変化と言えそうです。

ご紹介した「遅延浸透効果」は、将来の企業価値向上のために投資が必要だ、という議論を後押しする重要な考え方です。表現を変えると、今投資をしなければ、将来の企業価値が上がらない可能性を示唆しています。今投資をするか、しないか、いずれにしても、将来を決めるのは現在の意思決定です。「柳モデル」は意思決定者にとって、説得力を持って将来を説明する、新たな武器になると思います。

柳CFOの著書「CFOポリシー第2版」には、本コラムでご紹介しきれない、貴重な分析が満載です。ご関心のある方は、下記リンクから是非ご一読をお勧めいたします。

参考文献
柳 良平、2021年8月、『CFOポリシー〈第2版〉』中央経済社